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私の履歴書

サーバー移管に伴い、大方移し替えたが、ブログは大量すぎるので移さなくていいかと思っていました。

旧ホームページは既に一般公開されておらず、移管作業中デモサイトを見て移し替えをしていた。

移管作業も終え、デモサイトも来週には完全に消えてしまう。

そこで、新しいサーバーで作ったCEO BLOGの作業中、過去私が書いたブログを見て、今思い出しても記憶が曖昧になっていることを当時の思いも含め正確に私の履歴が書かれたブログはこちらに移行しようと思ったのです。

自己満です。でも、過去の自分のブログを見て、初心に戻れるし、もっと頑張らなきゃと思うわけです。

旧ホームページブログよりーーー
会社を立ち上げるきっかけ [2014年07月19日]

わたくしsumiは個人でやっていたアメブロ辞めようと思っています。
書いたブログも徐々に削除し、最終的には全て削除します。
その前に、仕事のことや会社のことを書いたブログをこちらに移します。
その時の思いや考え方、仕事へのスタンス…。

株式会社ジェンズエンターテインメントを退職したのは2007年3月

実質有給休暇を消化させてもらったので、勤務したのは3/18まで。

18日はmovement5周年×BANGIN’4周年コラボイベント開場前にO-EASTは記録的な行列ができた。
俺はmovementの集大成となる最後の仕事としてイベントに参加。
多くのダンサーのショーケース、アーティストのライヴ、EXILEとAIからのコメント映像など最後の仕事として最高の思い出となった。

その後アフターパーティーへ

eegmanで待っていてくれたのが、YA-KYIMとFoxxi misQ。

完全泥酔…

翌日事務所で寝ていた。

目が覚めると、もうすぐ始業の時間、ガンガン二日酔いのまま、帰路へついた。

が!電車で成田の方まで行ってしまう。

明日から何もすることがない。。。

会社を立ち上げる事は年末~年始にかけて若干諦めていた。

明日から時間もあるし、お世話になった方に挨拶に行く事と転職活動をすることを決めた。

転職希望はレコード会社かWEB関係(配信関係)を当たった。キャリアを積みたいと思い、編集や営業は俺の中ではいつでも復帰できるから自分の好きな道で新しい経験をさせてもらおうとおもったのだ。

某レコード会社へ応募したら通ってしまい、最終面接に行く寸前のこと。

ダンス・スタイル編集長と某ヘアケア会社の代理店にお世話になった挨拶をしにいった時に頂いた言葉がきっかけで会社を立ち上げた。

「編集も営業もできるからうちでの仕事をやってくださいよ。ただ、営業をするとなると屋号を持ってもらった方がいい」

悩んだ。キャリアアップではなく、今まで培った能力と経験を生かして会社を立ち上げる。

そして、某ヘアケア会社の代理店に言ったとき、ダンス・スタイルでこんなこといわれたんですよと話した時に

「会社を立ち上げて何かリスクはある?フリーランスと変わらず、稼げる前までは自宅兼事務所でいいんじゃない」

年末~年始に考えていた時、結果諦めようと思った1番の理由は金銭的な問題だった。

けど、この2社からの話で金銭面にリスクがないよう始めはほそぼそとやれば会社を立ち上げられると思ったのだ。

数ヶ月前に会社を立ち上げた方から自力で会社を立ち上げる為に定款等の作り方を教えてもらった。

その後は一気に会社を立ち上げることを今までお世話になったクライアント等に一斉に連絡した。

そして、ダンス・スタイルや某ヘアケア会社の代理店、あと前々職の株式会社トッキーズから立ち上げスグに仕事を頂いた。

その仕事のボリュームもお祝いをかねてか結構お金になる仕事だった。

そして、お世話になっているアパレルショップのGROPE in the DARKのクラブイベントをオーガナイズすることになり、会社登記成立タイミングでの開催に多くの企業、アーティスト、友達が来てくれた。

会社スタートはすごく良い流れができたのだ。

多くの方に支えられ、後押しされて会社を立ち上げ、その後押ししてくれた会社が仕事をくれた。
そして、良いタイミングでクラブイベントをやり角健在というのをみんなに伝える事ができた。

ただ、やはり立ち上げたばかりなので、翌月あたりから仕事をもらうために多くの出版社や早速ダンス・スタイルの営業をするために多くのクライアント周りをした。

この期間は種まき期間。もう覚えていないが←だめでしょ!3ヶ月~半年ぐらい収入が殆どなく、ギャラを叩かれたり、初めなんでお試してただ働きをしたり、イベントに顔を出したりときつい状況が続いた。
暖かくなってきたころは経費削減として原付で行動していた。

その頃の経費削減というのは今も活かされている。

2009年6月のスミアメブロより
———————-

スラングマガジン [2014年07月20日]
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当時、スラングマガジンを作るにあたって、一昨年からバッシュメントを手伝ってくれたアシスタントの子たちが沢山集結してくれた。

立ち上げの雑誌を作るというのは、非常に大変で編集部がどのようなものができるのかというのが、少しでも、一人でもずれてると内容自体バラバラになる。

みんなの指標になるよう、台割などを作っていった。

編集長の俺としての理想はあるが、出版社の意向、プロデューサーの意向を取り入れなければならなかったので、大変だった。

昔のmovementにいた頃と同じ思いをまたしてしまった。

ただ、そこは経験値。当時は分裂、会社崩壊寸前までいったが今回は、結束を強めていく結果となる。

舵を取る編集長の俺の理想ができない。でも出版社からは3号は必ず出すからと言ってもらっている。だったら、その3号出版社の理想とプロデューサーの理想を8割型反映して、2割俺色にしていく為に俺独自のページを作っていった。

俺の考えとして、雑誌をやることになったのは、出版社とプロデューサーのお陰、出版社がやろうと言わなければ存在しない雑誌。

そこを念頭に、自分の意見も言いつつ、出版社とプロデューサーが満足するものを作り、その後、俺がドンドン改善すれば良いと思っていた。

会社も一緒、会社は社長が作った。その社長が指針。社長の意図するものを達成する。
意見はするが、納得させる仕事をして、口出しができなくなるぐらい信用されるか、功績をあげてから俺的な考えを投下する。

俺は、ただ、会社の文句を言う人をみると残念になってくる。

会社運営は大変だ。俺は身にしみている。

とにかく働き、その会社の事情も知り、会社で業績を上げないと次ぎに進めない。

話がずれてしまったが、とにかく当時は、まだ見本誌がないから、全ての問い合わせが俺に殺到した。

それと同時に会社の初の決算と新入社員の手続きと始めてだらけのことにも追われた。

スラングマガジンのスタッフは、みんな素晴らしかった。

その中でもある3人にはとてもお世話になった。

実名だそうか悩むので、また次回。

もう戻りたくないし、戻れない。

凄く辛い日々。

睡眠不足とトラブルを背負った俺は、駅のプラットホームにまともに立てないぐらい衰弱していた。

電車にひかれるのでは?というぐらいフラフラ。

そんな俺を社員1号の日和や素晴らしいアシスタントがカバーしてくれた。

予算はすくなたっかので、ギャラは安かったが、俺の給料を削り、みんなと飲んだりした。
辛かったが、楽しい日々。

2009年9月頃スミアメブロより
——————–

始めたきっかけ [2016年03月]

美女toダンス

キャスティング 

マネジメント

まずはキャスティングの話から

2002年年末から2007年3月まで携わったストリートダンス系情報誌、フリーペーパーのmovement

movement編集部にいたころから、ダンサーやDJ、アーティストの紹介はやってきた。

独立後も無償でやってきた。
元々ダンサーやクラブ周りの人へのキャスティングなんて滅多になかったし、ギャラも安かった。 
だから、微々たるギャラからお金を抜くなんてせず、お世話になっているダンサーや業界に還元、ダンサーには肩書きとして実積を積んでもらおうと思っていた。

バッシュメントを立ち上げた2007年、直ぐに大塚製薬の清涼飲料水のキャスティングの話を確かキャスティング代行会社から頂いた。

スケジュールが非常にタイトで100人くらいオーディションへ送り込んだ。

ギャラなんてエキストラ程度だったんで、中抜きをせずやっていた。
会社を立ち上げた2007年は、編集プロダクションとして動いていたので、当時は滅多にない企業からのCMのキャスティングに紹介するだけだった。

キャスティングを事業としてやることを考えたのは、キャスティング内容やオファーの曖昧さ、スケジュールのタイト差に対し、ダンサーたちに対しての配慮のなさを何とかしたいと考えたのがきっかけである。

キャスティングをしていると企業や監督、様々な人たちの状況も分かるので弊社でできる限りケアをするため、キャスティングを事業化したのだ。

振り付けと出演で10万円と言うオファーに対し、内容に対する待遇の低さに交渉を重ね10倍のギャラにしてもらったこともある。

オーディション運営も請け負うようになり、ワーナーミュージックの洋楽アーティストのシャリース来日時のライブバックアップダンサー兼日本版ミュージックビデオ出演ダンサーのオーディションをやったのがきっかけになりあることを思いついたのである。

弊社では、みんなにチャンスを与えるため、仲が良いダンサーや近しいダンサーだけに声をかけるということをしてこなかった。

実際ミュージックビデオなどは、振付師がバックアップダンサーを決めることが多い。

弊社は、編集プロダクションとして、全てのダンサーやダンススクールと分け隔てなくフラットに付き合ってきました。

だから、シャリースのオーディションも連絡先を知っている全てのダンサーやダンススクールにオーディションの案内を出した。

そして、応募は北海道から沖縄まで日本中、アメリカからもあったのだ。

ここでは、明確な人数は書けないが数百人の応募があった。

そこで大変なのがプロフィール代行作成。

プロフィールを持っているダンサーは全体の1割もいないのだ。

アー写を持っているダンサーも1割いるかいないか微妙なラインだ。
しかもいつ撮ったの?というアー写をもらうことも非常に多い。

オーディションは、内容に合うかキャスティング会社、代理店、撮影監督、クライアントがプロフィール書類を見る一次書類審査を通過した人のみ、二次面談を受けるのです。

募集期間が短く、書類審査までにダンサーのプロフィール書類を作る作業が非常に時間も労力もかかるのだ。

シャリースのオーディションは、撮影監督とレーベルの方が一次書類審査をした。書類審査日までに、プロフィールを代行作成したのだが、不備のある人には連絡をしたり、数百人分を作るのに3日くらい不眠不休で作った記憶がある。

会社経営の立場で言うと本当に割りに合わない仕事なのだ。

その時、ダンサーと企業を繋げるマッチングサイトを作ろうと思うようになる。実は2007年の会社設立当初から考えてはいたのだが、ある程度予算をもってマッチングサイトを作ろうと思ったのは、シャリースオーディションをやってから。

当時2012年にマッチングサイトの概要を作り、いくつかのウェブ製作会社に会いに行った。

しかし、どこも提示する額が300万円から500万円。 

そんな予算を捻出することは、叶わず断念しかけてた。

それから二年

いよいよ今回はキャスティングから美女toダンスができるきっかけになったエピソード

多くのキャスティングの話を頂き、プロフィールを各人が簡単に更新できるマッチングサイトを作ろうと考えてたが、システムを作るのに300万円から500万円の見積が数社から届いた。

キャスティング事業部は、元々ボランティア的にやっており、ダンサーに対してのオファー待遇の改善、企業オファーをちゃんとやり取りできないダンサーの代理人になるべく、事業化したので、百万円単位もかかけてマッチングサイトを作る状況でもないときに、あるウェブ製作会社を紹介頂いたのだった。

2013年会社のホームページをリニューアルしようと思い、弊社のホームページを作成してくれたエムサンロードに相談した。

そこで紹介されたウェブ製作会社にホームページを作ってもらうことになったのです。

その会社にホームページをリニューアルしてもらおうと思った理由は、その会社が作ったシステムを月額で自由に使えるというところ。

ワーナーミュージックの、あるアーティストのバックダンサーオーディションをやらせていただき、選ばれたダンサーをアーティストが気に入ってくれ継続的にライブのバックアップやPVに起用してくれた。

そこで、ワーナーミュージックから弊社がダンサーのマネジメントとして、ダンサーと契約をしてほしいという話になったのです。

ダンサーの管理・責任を全て弊社が統括するということ。

たまたまだが、その自由に使えるシステムの中に今ホームページにあるアーティストリストというページが使える機能があった。

その少し後にG-SHOCK presents REAL TOUGHNESS 2011 OSAKA内で行われたBABY-Gダンスコンテストで優勝したRegardも弊社でマネジメント契約をするに至った。

そう、マネジメントも元々やろうと思ったのではなく、弊社がやる必然性があり始めたことなのだ。

ちなみに、Regardについて補足しておこう。

G-SHOCK presents REAL TOUGHNESSが企画された当初、選ばれた者しか出れない。
そのようなコンセプトの話をしてもらった。

「面白い!G-SHOCKらしく”0から1を作る”」と思った。

ダンスとBMXとスケートボードのバトルイベント。
バトルに出場するのは、ダンスセクションとBMXセクションとスケートボードセクションのアンバサターが選出する。

当初は、出場招待選手にだけ届く招待状とか様々な企画があった。

凄くいい!自分も招待状が届くようがんばる人もでてくるだろう。3つのジャンルが一緒になることでも各シーンの活性化になると思いました。

そこで、弊社がダンスセクションを統括することに。
弊社の強みとしては、編集プロダクションとして会社を立ち上げたこと。

ダンスの情報を公平に、なおかつダンススクールやダンサーと分け隔てなく付き合ってきた。

選ばれし者しか出場できないのであれば、弊社は適任だった。
アンバサターがダンサーやイベントをやっている団体だと、身近な人間や自分がオーガナイズするイベントに良く出る人や優秀な成績を修めた人しか選出されないだろう。

そうなるとそのダンサーやそのイベントを目指す結果なるし、そのダンサーと関わらない人やイベントの趣旨から出場したくない人が出るきっかけをなくす。

そこで、弊社がとった方法はまた今度にでも書きます。

カシオ計算機の人から、ダンスは特に集客力があると期待していることを聞き、ダンスバトルはバトルダンサーの周りの人が来るか、来ないかという状況なので、女子ダンスコンテストの提案をした。

その提案も一言では書けないので、はしょります。
その女子ダンスコンテストは、女子中高生3人制ダンスコンテスト。REAL TOUGHNESSの当初のコンセプト通り、選ばれし者しか招待されないというもの。

そこで、元々3人チームの日本トップクラスのダンスチームやスペシャルユニットを組んでもらったのだ。
Regardは、MIRAI、KYOKA、MAiKAの中高生のスペシャルユニットとして組んでもらい出場してもらった。

そして、G-SHOCK presents REAL TOUGHNESS 2011 OSAKA内で行われたBABY-G女子中高生3人制ダンスコンテストで優勝したのがRegard。

翌年カシオ計算機とアスリート契約をしていただくことになり、弊社がマネジメントとして契約を締結したのであった。

契約時、MIRAIは別のブランドとの契約の兼ね合いで、カシオ計算機との契約ができなかったので、KYOKAとMAiKAと契約することになった。

2012年のG-SHOCK全国ツアーでは、Regard/RUSH BALLとしてチーム名を表記、そして現在はMIRAIがいないし、元々KYOKA、MAiKAはRUSH BALLとしてチームを組んでいたので、RUSH BALLでカシオ計算機のアスリート契約を継続頂いているのだ。

そう、弊社がマネジメント事業部を立ち上げたのは、ワーナーミュージック案件とカシオ計算機案件からなのである。

そして、リニューアルした会社のホームページを使っていくうちに、このシステムで元々作りたかったマッチングサイトができるのでは?というところから、キュレーションメディア『美女toダンス』へと急展開していくのだ。

予算的には、今まで見積もりを頂いていたウェブ製作会社の10分の一以下。マッチングサイトはプロフィール作成の簡略化と連絡のやり取りをスムーズにするためのアイディア。これでは収益をあげれないというのと元々編集プロダクションなのでダンス、音楽、映画などのエンターテイメント情報なども弊社には入ってくる。そこでマッチングサイトをメディア化しようと思ったのです。

でも、情報が錯綜するネットの世界、どこもニュースを引用するなどニュースメディアは雑多なイメージがあった。なので、ダンサーは身体を使って表現する。すなわち自分自身、己を表現する。では、自分発信してもらおうと思ったのだ。

でもブロガーではない。キュレーターとなって、情報を発信してもらおうと思いキュレーションメディアにしたのだ。

長文になりそうなので、大分書きたい内容を抑えたので、説明不足かもしれないがこれが美女toダンス誕生のきっかけ。

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